おはんこ日記

映画の感想など

マン・オブ・スティールを見た

最近、バットマンVSスーパーマンを見て、良かったので前作も観てみた。

 

 

マン・オブ・スティールというのはスーパーマンの別名らしい。
知らなかった。 

 

クリプトン星生まれのクラーク・ケントがスーパーマンとして誕生する話。

カンザスに生まれ育ち、自分の力を持て余していたクラークは自分の出自を知るが、故郷の星の人々を取るか、地球人を取るのか、の2択を迫られてしまう…


というストーリーは最初から頭に入れて観始めたのだが、いきなりクリプトン星で、クラーク(カル=エル)の母ララの出産シーンから始まるのでビックリした。

クリプトン星人の出産って地球人と同じやな…とか思って見ていたが、実はそれは数百年ぶりの自然出産だったらしい。

基本、クリプトン星では、子は人口子宮のようなもので生まれ、さらに生まれたときからどういう人生を送るのかはあらかじめ決められている。
クラークの両親であるジョーとララはそこに反発する目的で、自然出産し、息子に星の未来を託した。

なんか…クラークの両親ってアメリカ人っぽいな、って思った。
クリプトン星の他の人たちは別の思想を持っているが、エル親子だけ地球人(というかアメリカ人)らしさがすごい
その後、クラークは地球に移り、カンザスの両親に育てられる。
クラークは自ら言うように、生粋のカンザス育ちのアメリカ人だ。

地球か、クリプトン星か、というより、アメリカか、それ以外か、みたいな感じがしてしまった。
アメリカのヒーローなんだし、それで良いのだろうが…

 

生まれたときからの運命に従うだけの人生ではなく、自分の可能性に挑戦するべきだ、というアメリカンドリーム的な発想は、間違ってはいない。
ででも、結局、能力その他は生まれつきのものがかなり左右するし、そういう発想では一部の有能だったり幸運な者が自由に願いを叶え、能力がなかったり不遇な者に選択肢はない。
それでいて、その不遇は自己責任だ、というのがアメリカ的社会の現実のように私には見えてしまう。


スーパーマンというかクラークがアメリカ人過ぎて、どっちを取るか、と言われても「いや、あんたは絶対地球取るやろ」と最初から思ってしまう。

 

…愚痴めいてしまったが、全体的には満足して楽しめた。

親子シーンも素直に見たらじんわりする。
クラークはクリプトン星でも地球でも両親に愛されていたんだな、ということが分かる。


闘いシーンも迫力があった。
ビルがものすごい勢いで崩れ落ちるシーンがすごい。


ヴィランのゾッド将軍も好き。

クリプトン星を守るために地球を滅ぼす目的に従い動く。
仲間とともに長い苦労の期間にも耐え、ストイックに使命を果たそうとする。
地球人のそれとは違うんだろうけど、仲間たちとも良好な関係を築けている。
(副官のファオラが冷たい奇麗さと恰好良さがあって好き)

自分の欲望のために悪に手を染める系のヴィランを観ることが多かったから、ゾッド将軍のように純粋に自分の星のためを思って行動しているヴィランが新鮮だった。

最後、他の仲間もクリプトン星を再興する望みも絶たれたゾッド将軍の哀しみが切なかった。
彼の攻撃に対応して最後は地球人を庇うために殺したスーパーマンの苦悩も切なかったけど。

 

大したことない私の鑑賞経験から思うだけだけど、DC系のヴィランは基本扱いが良いと感じる。
(ハーレイクインの華麗なる覚醒のヴィランの扱いはイマイチだったと思う…まあ、そもそもハーレイ自身がヴィランで、彼女の描き方は魅力的だったが)

この作品もそうだが、ヒーローと同じくらいヴィランも作品にとってなくてはならない存在として描いてくれている。
彼達にもそれぞれの人生があり、それを生きる中で何かを望み、それが正義側と対立するものとして描かれている。
ヴィランはヒーローのためにいるのではない…たとえそうであっても、ご都合主義になってはいけない。
お互いがお互いを引き立てて作品を作り上げる、という意識を見せてほしい。

どんなヴィランでも、映画内でどう位置付けし、描写するかで、その存在価値は大きく変わる、と私は思っている。
その影響はヒーローの魅力にも関わってくる。

 

そこを分かってくれているのでバットマンVSスーパーマンも、その前作にあたるマン・オブ・スティールも満足して観ることができた。